戦の決着と、一人の少女
著者:月夜見幾望


「はあ……、はあ……」


頬から大量の汗が滴り落ちる。道場の床は飛散した汗でずいぶん滑りやすくなっていた。
……ただし、これらの汗はすべて竜儀のものだ。すでに息の上がっている竜儀とは対照的に壱時雨十段は呼吸一つ乱れていない。
両者の戦の趨勢はここにきて明白だった。
一太刀をほぼ無心で放つ壱時雨十段と、自らの剣道に基づいてその度にあらゆる情報を読み取らなければならない竜儀。いくら動体視力に長けていようが、数時間もの間、一切の余念もなしに師の斬撃に集中し続けていれば目に疲労がくるのは当然だ。そして、それは次第に体全体に広がりつつあった。

「はあ…、げほっ…!」

竹刀を握る手に力が入らない。一心に師へと向かっていく足は、だが小刻みに震えていた。
そんな弟子の姿を壱時雨十段は嘲笑う。

「情けないのう、竜儀。己の長所が逆に枷になるとは」
「くっそ……!」


───たった一太刀。
ただの一撃、師の体を捉えることができれば高みへの道は開かれる。だが、それは予想以上にとんでもなく高い壁だった。


───しかし、それは同時に壱時雨十段にも当てはまる驚愕だった。


壱時雨十段はこれまで数々の強者と剣を交えてきたが、己が本気で打ち合えた相手はわずか数人のみだった。
剣の本質を知りもせず、ただ強さだけを求め続けていた馬鹿どもは、この手で一瞬にして斬り伏せてきた。それを……


ばあんっ!!


切れの良い乾いた剣戟音が鳴り響く。またしても竜儀は師の斬撃を受け止めていた。
それはつまり、壱時雨十段もまた竜儀の体を捉えることができないでいる証拠だった。
普通の剣道の試合時間は5分。それを数十倍する時間を経てもなお竜儀の勝利への意志は失われていなかった。
切れ長の目に収まった瞳に宿る強い光に、あまつさえ気圧される。


(これほど勝利に固執するとは……。負けず嫌いもここまでくればむしろ立派なものよ)


壱時雨十段は口元を綻ばせる。竜儀の剣はいずれ高みへと届くだろう。そのための踏み台として自分が必要となるのなら───


「次で決めるぞ、竜儀よ。おぬしも全力を以ってかかってくるがよい」


両者は一旦間合いを離す。


(次で決める……)


勝利の決定打なら竜儀にも考えがあった。一本取るだけでいいのなら、防御を考えない『捨て身の斬撃』を玉砕覚悟で繰り出せばあるいは……。
ただ問題となるのが時間。竜儀の一撃が壱時雨十段のスピードを上回れるか、にすべてがかかっている。
竜儀は一度大きく息を吸い込んだ。それからゆっくりと空気を吐いて乱れかけていた精神を集中させる。手汗で握る位置が微妙にずれてしまっていた竹刀を、もう一度強く、しかし柔軟に握りしめた。


道場を支配するのは今や無音。
それが乱れる時こそが決着の瞬間。


「では、いざ!!」


流れる体。
一秒にも満たない時間の中で。
一切の小細工もなしに真正面から振り下ろされたはずの師の竹刀が、


すっと左に40度傾いた。



───神速で振り切られた竜儀の斬撃から己の体を守るために。



だが、すでに力を使い果たした竜儀に握力は残っておらず、竹刀は師の体を捉える前に手からすり抜けてしまった。結果、竜儀の竹刀ははるか遠くへ、壱時雨十段の竹刀は竜儀の脇腹を正確に打ち据えた。

「………ッ!!」

あまりの痛みに脇腹を押えてうずくまる。主の手を離れて飛んでいった竹刀が、カラカランと道場の床を滑る音だけが決着の余韻を彩っていた。
壱時雨十段はただ無言で立ち尽くしているだけだった。敗北感に顔を歪ませて。
あの一撃。竜儀にほんの少しの握力が残っていたのなら、間違いなく負けていたのは自分のほうだったからだ。その事実が、弟子にかける言葉を咄嗟に奪っていた。
やがて、長い沈黙を破り、壱時雨十段は口を開いた。

「おぬしの勝ち……と言うても、おぬしの性格からしてきっと満足はしていまい。高みへと到達したいのならば、さらなる修練を積んでいつか儂を越えてみよ。……儂も、過去のすべてを以ってしておぬしを迎え撃つ」









道場を後にした竜儀は、石段を下りながら独り言をぶつぶつと呟いていた。試合の後はその分析をごちゃごちゃと呟きたくなる性格なのだ。……もっとも周りからは”危ないやつ”のように思われているらしいけど、癖なんだから仕方ないじゃないか!

「はあ〜。今回詰めが甘かったなあ……。もっと体力配分考えておけばよかった。大体どうしてあの時(以下中略)。あ〜、ねむ! 早く帰って寝て〜」

試合のときの剣呑な雰囲気はどこへ行ったのか、というほどのへたれっぷりだ。
実は竜儀。姉と師の前ではクールに振る舞う(ように努めている)が、本音を言うと肩が凝って仕方ないのだ。
雹李は事あるごとになにかと竜儀にちょっかいをかけてくる。本人は「弟想いだ」とか言っているが、軽いSっ気も混じっていて、ちょっとでも気を許そうものなら何をされるか分かったもんじゃない。まあ、壱時雨十段の前で硬くなってしまうのは、真摯に剣道に打ち込みたいという単純な理由なのだけれど。

“素”に戻った竜儀がふらふらと帰路を歩いていると、突然背後から親しみのこもった声が投げかけられた。

「おーい、竜儀〜」

その声に足を止めて振り返ると、一人の女の子が凄い勢いで走ってくるところだった。彼女を知っている竜儀は、手を振り返しながら少女の名を口にする。

「亜衣。こんな所で会うなんて珍しいな」

かなり全力で走ってきた亜衣は、風になびくツインテールの余韻を残して目の前で急停止する。

「近くの総合体育館で女子バレー部の練習があったのよ。今はその帰り」

見ると、亜衣は両手にバレーボールとシューズや着替えの入った袋を持っていた。そんなものを持って全力で走ったからだろう、足元が少しふらついている。

「普通ロッカーにボールやシューズは置いてこないか。全部持ち帰ってたら重いだろ。ほら、そっちの袋持ってやるから」
「えっ? あ、うん、ありがと……」

彼女から袋を受け取り、肩を並べて歩く。
しばらくして亜衣が、ぽつりと言った。

「ね、竜儀はさ。あたしのことどう思ってる?」
「ほえ?」

意図の読み取れない質問に、間抜けな返事を返してしまう。

「だ・か・ら。あたしのこと好きかって聞いてるの!」

なんてストレートな攻撃なんだ。剣道とは違い、そんな攻撃を受けたことのない竜儀は呆気なく崩れてしまう。

「え、いや…、好きとか…じゃなくて……そ、そう、ただのクラスメイトとして」

あたふたしていると、亜衣が至近距離から上目づかいで顔を覗き込んできた。
少し悪戯っぽい光が宿る目。整った繊細な顔のラインに形のいい眉。いまだに残る汗が、彼女の白い首筋をつぅーっと流れていく。
やわらかそうな唇が再び言葉を紡ぐ。

「本当に?」

破壊力抜群の追撃に思わず顔をそらす。心臓の鼓動は早鐘のようになっていた。
そんな正常な思考が失われた頭で必死に考える。

(こ、こういう時、どう返せばいいんだ!? 確かにかわいいとは思うし……す、好きじゃないと言えば嘘になるけど……)

「なーんてね。冗談よ、冗談。やっぱり”普段の”竜儀はいじりがいがあって面白いわね。剣道の時とかあんなに真剣になるくせに、それ以外でちょっとからかうとすぐ赤くなるんだから。かわいい!」
「う、うるさいな! どうでもいいだろ、そんなこと! それから姉さんには絶対に言うなよ!」
「うーん、どうしよっかな〜♪」
「ごめんなさい、言わないでください。お願いします」
「駅前の”キャットバーガー”で『絶品マグロハンバーガー』が食べたいなあ」
「分かりました。奢りますから勘弁してください」
「よし、交渉成立ね」

……ものすごく疲れる会話に精神力の大半が持っていかれる。
脱力している竜儀とは反対に上機嫌な亜衣は、そういえば、と話題を変える。

「ウチのクラスに今度転校生が来るみたいなんだけど、竜儀は知ってる?」
「転校生? いや、知らないよ。クラスの連中ともそんな話したことないし」
「そう。でもその子剣が得意らしいから、もしかしたら竜儀のライバルになるかもしれないよ」
「剣が得意ねえ……。ま、それはそいつと一度戦ってみないと分からないけどな」

そう言ったところで、突然竜儀の腹がぐぅ〜と空腹の音を告げた。

「竜儀。お昼まだ食べてないの?」
「ああ、そういえばまだだったっけ。道場で師と打ち合ってたからもう腹ペコだ」
「だったらウチに来ない? 今両親出かけているし、材料も余っているから竜儀の分の昼食も作ってあげるよ」
「はっ!? い、いや遠慮しとくよ。邪魔しちゃ悪いし」
「む〜。女の子の誘いを断るとどうなるか思い知りなさい!」

ひゅっとバレーボールを投げてくる亜衣。だが、いくら不意打ちでも竜儀はなんなくかわして見せた。そのせいでボールは車道のほうへ飛んでいく。

「やば、まず!」

しかし、亜衣の心配は杞憂に終わった。
竜儀がボールの動きに合わせて軽く竹刀を振ると、ボールはまるで竹刀に吸い付くように軌道を変え、完全に勢いを失って”竹刀の上で”ぴたっと静止した。

「ったく。ちゃんと持ってろよ」
「あ、う、うん。ごめん」

まじまじと自分を見つめてくる亜衣にボールを返す。

「? なんか俺の顔についてるか?」
「ううん、なんでもない。じゃ、あたしの家行こう」

そのとき、亜衣は根拠のない確信を抱いたのだった。



───竜儀は剣を極めるために生まれてきたのだと。



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